ここで、量子情報の基礎にまつわる2つの話題を紹介する。これらのコラムの内容は本編の理解に必須ではないので、難しくて分からない場合は適宜飛ばして次に進んでほしい。

コラム1:量子複製不可能 (No-Cloning) 定理

量子情報が古典情報と大きく違う点の 1例として、任意の量子状態を複製する事は出来ないという 量子複製不可能 (No-Cloning) 定理 がある。
つまり、任意の状態 \(| \psi \rangle\) に対して \(U \left( | \psi \rangle \otimes | 0 \rangle \right) = | \psi \rangle \otimes | \psi \rangle\) を満たすユニタリー演算子 \(U\) は存在しない。これを証明してみよう。

証明

任意の状態 \(| \psi \rangle\) に対して \(U \left( | \psi \rangle \otimes | 0 \rangle \right) = | \psi \rangle \otimes | \psi \rangle\) を満たすユニタリー演算子が存在したとする。この時、任意の状態 \(| \psi \rangle, | \phi \rangle\) について

\[\begin{split}U \left( | \psi \rangle \otimes | 0 \rangle \right) = | \psi \rangle \otimes | \psi \rangle \\ U \left( | \phi \rangle \otimes | 0 \rangle \right) = | \phi \rangle \otimes | \phi \rangle\end{split}\]

が成り立つ。左辺・右辺それぞれについて、上の式と下の式で内積をとると、\(U^\dagger U = I\) だから

\[\langle \psi | \phi \rangle = \left( \langle \psi | \phi \rangle \right)^2\]

となる。よって \(\langle \psi | \phi \rangle = 0, 1\)のいずれかとなるが、\(| \psi \rangle, | \phi \rangle\) は任意だったはずだから、これはおかしい。よって、\(U\)は存在しない。■

(参考:Nielsen-Chuang Box 12.1: The no-cloning theorem)

コラム2:Bell (CHSH) 不等式

Bell の不等式とは物理系が局所実在性 (local realism) を満たすと仮定した時に、複数の観測系の相関の強さの上限を与える関係式である。 この不等式は John Bell によって 1964年に提唱され、量子力学を 隠れた変数 によって説明しようと試みた理論の検証に用いられた。

Bell の不等式を説明する前にまずはエンタングル状態の説明をする。

エンタングル状態

状態がエンタングルされている (エンタングル状態にある) とは、状態が複数の観測系の状態の直積で書く事ができないという事である。 具体例として Bell-状態 を考える。この 2つの粒子状態: \(\left|\psi \right> = (\left| 00 \right> + \left| 11 \right>) / \sqrt{2} = (\left| 0 \right>_A \left| 0 \right>_B + \left| 1 \right>_A \left| 1 \right>_B) / \sqrt{2}\) をそれぞれ Alice と Bob がシェアしている。 この状態は、次の相関関係を持つ:

  • もし Alice が自分の粒子を \(z\)-軸方向で観測して \(0\) の結果を得ると、Bob の粒子も瞬時に \(\left| 0 \right>\) の状態に収縮する

  • もし Alice が自分の粒子を \(z\)-軸方向で観測して \(1\) の結果を得ると、Bob の粒子も瞬時に \(\left| 1 \right>\) の状態に収縮する

  • もし Bob が自分の粒子を \(z\)-軸方向で観測して \(0\) の結果を得ると、Alice の粒子も瞬時に \(\left| 0 \right>\) の状態に収縮する

  • もし Bob が自分の粒子を \(z\)-軸方向で観測して \(1\) の結果を得ると、Alice の粒子も瞬時に \(\left| 1 \right>\) の状態に収縮する

これらの相関関係は、この量子状態を保っている限り Alice と Bob がいかに離れた場所にいても成立する。 この現象は、状態が Alice か Bob どちらかが粒子状態を観測するまで確定せず、どちらかが観測をすると 2人の粒子が同時にある状態に収縮すると解釈される。 量子力学の建設初期の 1935年、アインシュタインは有名な EPR 論文で、物理量は観測される前に確定されており (実在性) 物理法則は 局所性 を持つとの立場から、この解釈を否定し量子力学を不完全な理論とした。 物理理論が実在性と局所性を同時に満たす (局所実在性 (local realism) と呼ばれる) と仮定すると、Bell 状態は 2つの粒子が Alice と Bob にシェアされる前にある隠れた変数 (hidden-variable) を持ち、その隠れた変数に従って状態が観測されると考える事ができる。

実際に隠れた変数が存在するのか、あるいは局所実在性は成立しないのかという議論は長らく実証不可能であると考えられていた。 この哲学的な問いは、EPR論文からおよそ 30年後の 1964年、Bell 不等式が提唱されたことで、実験的に検証可能なものになった。 以下では、CHSH ゲーム と呼ばれる例を用いて、非局所相関をどのように実証するか説明する。

CHSH ゲーム

具体例を見るために、次の例を考える: Alice と Bob は協力して、CHSH ゲーム に挑戦する。このゲームでは、

  • Alice は、第三者の Charlie から送られるランダムビット \(x\) を受け取って、ビット \(a\) を返す

  • Bob は、 第三者の Charlie から送られるランダムビット \(y\) を受け取って、ビット \(b\) を返す

  • Alice と Bob が返したビットが \(a \oplus b = x \wedge y\) を満たせば 2人の勝ちとする

  • Alice と Bob はゲームで勝つ確率を最大化するための戦略を、ゲーム開始前に協議することができる

  • 一度ゲームが開始されると Alice と Bob はそれぞれの実験室に篭るため、お互いにコミュニケーションを取ることはできない (Alice は Bob が受け取ったビット \(y\) を、Bob は Alice が受け取ったビット \(x\) を知ることはできない)

  • 2人はそれぞれの実験室に (エンタングルメント状態にある) 粒子を持ち込む事ができる

\(x \wedge y\)を表で表わすと次のようになる。

\(x\)

\(y\)

\(x\) AND \(y\)

0

0

0

0

1

0

1

0

0

1

1

1

ランダムビットが \(0\) の時のAliceとBobのアウトプットをそれぞれ \(a_0\)\(b_0\)、 ランダムビットが \(1\) の時のアウトプットをそれぞれ \(a_1\)\(b_1\) とすると 2人が全ての場合で勝つためには

\[a_0 \oplus b_0 = 0\]
\[a_0 \oplus b_1 = 0\]
\[a_1 \oplus b_0 = 0\]
\[a_1 \oplus b_1 = 1\]

を全て満たすようにアウトプットビットを選ぶ必要があるが、これが不可能である事は 4つの式の両辺を mod 2 で足せば分かる。 では2人がゲームで勝つ確率の最大値はいくらであろうか?

自然が局所実在性に従うと仮定すると、Alice と Bob がこのゲームに勝つ確率は如何なる戦略を用いても 3/4 (75%) 以下である事が次のように示される。 但しここで局所実在性とは \(a = a(x, w)\), \(b = b(y, w)\) のように、Alice と Bob が予め決められた共通の変数 \(w\) とそれぞれの入力値 \(x\)\(y\) に従って値を返すという意味である。

CHSH 不等式

エンタングルした粒子について、Alice がそれぞれ \(a\)\(a^{\prime}\) のいずれかの物理量を観測するとする。 同様に、Bob も、\(b\)\(b^{\prime}\) のいずれかの物理量を観測するとする。 ただし、これらは \(\{ \pm 1 \}\) のいずれかの値をとり、隠れた変数によって決定されるものとする。 ここで局所実在性の仮定より、\(a\)\(a^{\prime}\)\(b\)\(b^{\prime}\) は同時に決定されるとする。 この時、 \(a + a^{\prime} = 0\)\(a - a^{\prime} = \pm 2\) または \(a - a^{\prime} = 0\)\(a + a^{\prime} = \pm 2\) のいずれか一方を満たすので、各実現値について

\[(a + a^{\prime}) b + (a - a^{\prime}) b^{\prime} = a b + a^{\prime} b + a b^{\prime} - a^{\prime} b^{\prime} = \pm 2\]

が成り立つ。これより、平均値をとると

\[\left| \left< a b \right> + \left< a^{\prime} b \right> + \left< a b^{\prime} \right> - \left< a^{\prime} b^{\prime} \right> \right| \leq 2\]

が成り立つ。この関係式は Clauser-Horne-Shimony-Holt (CHSH) 不等式 と呼ばれる。 CHSH 不等式は 2つの古典系の間の相関の強さの上限を与える。

この不等式から、自然が局所実在性に従う時に Alice と Bob が CHSH-ゲームで勝つ確率の上限を導こう。 上記の CHSH 不等式は \(a, a^{\prime} \in \{ \pm 1 \}\) という変数についての不等式だが、ビット列 \(a_{0, 1} \in \{ 0, 1 \}\) とは \(a = (-1)^{a_{0}}\)\(a^{\prime} = (-1)^{a_{1}}\) という式で対応させられる。

入力ビット (\(x\), \(y\)) が与えられた時に 2人が勝つ (\(a_x \oplus b_y = x \wedge y\) を満たす) 確率をそれぞれ \(p_{xy}\) とすると

\[\left< a b \right> = p_{00} - (1 - p_{00}) = 2 p_{00} -1\]
\[\left< a b^{\prime} \right> = 2 p_{01} -1\]
\[\left< a^{\prime} b \right> = 2 p_{10} -1\]
\[\left< a^{\prime} b^{\prime} \right> = 1 - 2 p_{11}\]

入力ビットが一様にランダムに与えられたとすると、2人がゲームに勝つ期待値はCHSH 不等式を用いて

\[\left< p \right> = \frac{p_{00} + p_{01} + p_{10} + p_{11}}{4} = \frac{\left< a b \right> + \left< a b^{\prime} \right> + \left< a^{\prime} b \right> - \left< a^{\prime} b^{\prime} \right> + 4}{8}\leq 3/4\]

と求められる。Alice と Bob が取れる最善の戦略は、それぞれの入力値に関わらず \(0\) を出力する事 (このとき勝率75%) である事がわかる。 以上より、局所実在性に従い隠れた変数 \(w\) をシェアした場合、2人がゲームに勝つ確率は 75% 以下である事がわかった。

Cirel’son (Tsirelson) 不等式

実は、もし 2人が隠れた変数ではなくエンタングル状態の粒子をシェアした場合、この確率の上限はおよそ 85.3%に増加する事が知られている。 Cirel'son 不等式 を用いてこれを説明する。

Cirel’son (Tsirelson) 不等式は 2つの量子系の間の相関の強さの上限を与える不等式:、

\[\left| \left< a b \right> + \left< a^{\prime} b \right> + \left< a b^{\prime} \right> - \left< a^{\prime} b^{\prime} \right> \right| \leq 2 \sqrt{2}\]

で、入力ビットが一様にランダムに与えられた時, 2人がゲームに勝つ期待値は:

\[\left< p \right> = (p_{00} + p_{01} + p_{10} + p_{11})/4 \leq 1/2 + 1/2 \sqrt{2} \approx 0.853\]

と求められる。 Alice と Bob が Bell-状態の粒子 \((\left| 0 \right>_A \left| 0 \right>_B + \left| 1 \right>_A \left| 1 \right>_B) / \sqrt{2}\) をシェアする時に取れる最善の戦略は、

  • \(x = 0\) の時 Alice は \(Z\) 基底で \(\left| \psi \right>_A\) を観測する。 \(\left| 0 \right>_A\) を観測すれば \(a=0\)\(\left| 1 \right>_A\) を観測すれば \(a=1\) を出力する

  • \(x = 1\) の時 Alice は \(X\) 基底で \(\left| \psi \right>_A\) を観測する。 \(\left| + \right>_A\) を観測すれば \(a=0\)\(\left| - \right>_A\) を観測すれば \(a=1\) を出力する

  • \(y = 0\) の時 Bob は \(RX(\pi/8)\) 基底で \(\left| \psi \right>_B\) を観測する。 \(\left| H^+ \right>_B\) を観測すれば \(b=0\)\(\left| H^+_{\perp} \right>_B\) を観測すれば \(b=1\) を出力する

  • \(y = 1\) の時 Bob は \(RX(-\pi/8)\) 基底で \(\left| \psi \right>_B\) を観測する。 \(\left| H^- \right>_B\) を観測すれば \(b=0\)\(\left| H^-_{\perp} \right>_B\) を観測すれば \(b=1\) を出力する

である。だだし、

  • \(\left| H^+ \right>_B = \cos(\pi/8) \left| 0 \right>_B + \sin(\pi/8) \left| 1 \right>_B\)

  • \(\left| H^+_{\perp} \right>_B = \sin(\pi/8) \left| 0 \right>_B - \cos(\pi/8) \left| 1 \right>_B\)

  • \(\left| H^- \right>_B = \cos(- \pi/8) \left| 0 \right>_B + \sin(- \pi/8) \left| 1 \right>_B\)

  • \(\left| H^-_{\perp} \right>_B = \sin(- \pi/8) \left| 0 \right>_B - \cos(- \pi/8) \left| 1 \right>_B\)

この手続きに従うと全ての入力ビット (\(x\), \(y\)) に対して \(p_{xy} = \cos^2(\pi/8)\) となるので、2人がゲームに勝つ期待値は

\[\left< p \right> = \cos^2(\pi/8) = 1/2 + 1/2 \sqrt{2}\]

が得られる。

以上のCHSH ゲームの例で分かるように、エンタングル状態にある粒子を用いる事で Bell 不等式 (CHSH 不等式) を破る事が可能であると分かった。そして 1982年に Aspect らによる CHSH ゲームの実験によって、Bell 不等式が実際に破れている事が示された*。

*いわゆる“loophole”と呼ばれる、実験の不完全さを埋める研究は今でも世界各地で行われている。

(参考:Nielsen-Chuang 2.6 EPR and the Bell inequality)